津軽藩士墓所跡・津軽藩士殉難慰霊碑

蝦夷地で亡くなった津軽藩士の墓/つがるはんしぼしょあとつがるはんしじゅんなんいれいひ
開催場所:
津軽藩士墓所跡・津軽藩士殉難慰霊碑
099-4113 北海道斜里郡斜里町本町49-2町民公園内
駐車場:
斜里町役場・斜里町立知床博物館などを利用
駐車場料金:
無料
駐車場マップ:
斜里町役場の裏手、知床博物館の西側のこんもりと茂った町民公園にある史跡。1807年(文化4)年、江戸幕府は津軽藩、秋田藩などの東北諸藩に蝦夷地警備を命じている。さらに1807年(文化4)年~1809年(文化6)年、江戸幕府は、会津藩に対して樺太への出兵を命じている。帝政ロシアの南下政策に対して、1807年(文化4)年、シャリ場所は松前藩領から天領となり、津軽藩が斜里前浜に陣屋3棟を構えた。厳しい冬場に浮腫病の蔓延により藩士は72名が死亡し、故郷の津軽に戻った者はわずかに17名となった。津軽藩士殉難事件といわれる悲劇で、町民公園には津軽藩士殉難慰霊碑があるほか、藩士の墓所も残されている。『しれとこ斜里ねぷた』の際には殉難慰霊碑前で、慰霊祭も行なわれている。津軽藩のシャリ場所警備は文化5(1808)年に会津藩に引き継がれた。ちなみに当時のシャリ場所は、能取から知床岬までの領域だった。幕末の安政6(1859)年に会津藩は本営陣屋を標津に置き(シャリには出張陣屋)、本格的な蝦夷地経営と開拓に乗り出すが、財政的な理由もあってあまり成果を上げずに明治維新を迎えている。【開国】